忘れられない喫茶店の味を求めて
コーヒーには、人の記憶や感情を優しく呼び起こす不思議な力があります。香りをかいだ瞬間、あの日の会話や情景がふっと蘇る――そんな経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
今回ご紹介する「満月ブレンド」も、まさに“思い出”から生まれた一杯です。きっかけは、50代のお客様からいただいた一つのご注文でした。
「昔、喫茶店で飲んだあの味を…」
そのお客様は、いつも落ち着いた雰囲気でコーヒーを楽しまれる方。ある日、焙煎所に来店されたときに、こんなお話をしてくださいました。
「若い頃、よく通っていた喫茶店があったんです。そこで飲んだコーヒーが、本当においしくて…コクがあって、深みがあって、でも苦すぎず。あの味が忘れられなくて、もし再現できたら嬉しいなって。」
それはまるで、遠い昔の友人に再会したいというような、少し切ないお願いでした。その喫茶店はすでになく、味の記憶だけがお客様の心に残っている――。私はその話を聞いた瞬間、「何とかして、その思い出をもう一度蘇らせたい」と思いました。
深夜の焙煎と試行錯誤
そこから私の“味探し”が始まりました。まずは、お客様が覚えている味の特徴を丁寧にヒアリング。「コクと深み」「まろやかさ」「後味にほんのり甘み」。この3つを軸に、豆の種類と焙煎度を決めていきます。
選んだのは、深煎りのブラジルとコロンビア。ブラジルの柔らかなナッツ感と、コロンビアの豊かな甘みをベースにしつつ、さらに深みを出すために少しだけマンデリンを加えました。これにより、コクの中にも奥行きが生まれ、口当たりの柔らかさと力強さを同時に感じられるようになります。
焙煎は夜に行いました。昼間の喧騒が落ち着いた後、焙煎機の音だけが響く静かな時間。豆の色や香りの変化を一粒一粒確かめながら、何度も火加減を調整します。
テストブレンドを作っては試飲し、「もう少し苦みを立たせたい」「甘みを残したい」と配合を微調整。そんな作業を繰り返すうちに、気づけば時計は深夜を回っていました。
ふと見上げた空に、満月
いくつもの試行錯誤を経て、「これだ!」という味にたどり着いた瞬間。ふと窓の外を見ると、夜空には大きく丸い満月が輝いていました。
深く、まあるく、優しく照らす光。その光を見たとき、完成したコーヒーの味わいとお客様の思い出が重なり合った気がしました。そして、このブレンドの名前は自然と「満月ブレンド」に決まりました。
深みの中にお客様の想い出を照らす そんな一杯になってほしいその願いを込めて。

初めての試飲
完成した「満月ブレンド」をお客様にお出しした日。カップから立ちのぼる香りをゆっくりと吸い込み、一口、また一口と飲まれたお客様は、少し笑みを浮かべながらこう言いました。
「…これです。あの頃の味に、とても近いです。いや、むしろ今の自分には、この味が一番しっくりきます。」
その瞬間、焙煎士としてこれ以上ない喜びを感じました。コーヒーの味は、単なる苦みや香りだけではなく、飲む人の記憶や感情と結びついて完成するものだと改めて実感しました。
それから「満月ブレンド」は、それ以来、お客様の定番として定期的にご注文いただいています。ご自宅でゆっくり味わう日もあれば、大切な人との時間を彩るために淹れる日もあるそうです。
このブレンドが、お客様の過去と現在をつなぐ一杯として、日々の暮らしに寄り添えていること。それは私にとって、コーヒー屋を続ける大きな理由の一つです。
満月ブレンドの味わい
味の印象を一言で表すなら、「やわらかな深み」。しっかりとしたコクがありながら、口当たりはまろやかで、後味にはほんのり甘みが残ります。深煎りらしい力強さを持ちながらも、どこか優しい――そんな味わいです。
ブラックでじっくり楽しむのはもちろん、少しミルクを加えると、よりまろやかでクリーミーな一杯になります。
コーヒーと記憶
今回のエピソードを通して改めて感じたのは、コーヒーが持つ「記憶を呼び起こす力」です。香りや味わいが、人の心の奥にしまっていた景色や感情を引き出す――それはとても特別なこと。
もしかすると、あなたにも「忘れられない一杯」があるのではないでしょうか。もしそんな記憶の味があるなら、ぜひ教えてください。その味を、今のあなたに寄り添う形でお届けできたら嬉しいです。
